序曲 レナータ ラヴィトラーノ Renata,ouverture  作曲:Giacinto Lavitrano

レナータ・ディ・フランチア

 序曲レナータは1909年パリの レステューディアンティーナ誌 L'Estudiantina 主催の作曲コンクールで2位を受賞した曲であり、ラヴィトラーノの代表的なマンドリン合奏曲のひとつ。宗教戦争のさなか自分の信仰を守った女性の半生を描いている。

 題名のレナータはイタリア語ではレナータ・ディ・フランチア Renata di Francia、フランス語ではルネ・ド・フランス Renée de France を指す。ここではルネで記す。ラヴィトラーノがレナータとイタリア語の題名にしているのはカソリックの家族への遠慮なのだろう。絵は Corneille de Lyon による肖像画

宗教戦争とルネの生い立ち

 フランスでのカソリック教徒とカルヴァン派のプロテスタントである Huguenot ユグノー※による宗教戦争は1562年のヴァシーの虐殺から1598年のナント勅令まで、休戦を挟んで8次40年近くにわたり続いた。歴史的にはユグノー戦争と呼ばれている。

1518年~1519年にマルティン・ルターの書物によって宗教改革がフランスに伝えられたが、ローマ教会がルターを非難したため1521年以降、プロテスタント信仰を持つ者は火あぶりの刑か亡命の他に選ぶ道が無くなった。

 ルネは宗教改革前夜である1510年10月25日にフランス王ルイ12世と王妃アンヌ・ド・ブルターニュの次女として、フランス中央部のブロワで生まれた。

ルネの結婚と夫エルコレ2世

 1528年4月、ルネはフェラーラ公アルフォンソ1世の跡を継いだエルコレ2世と結婚した。ルネは新しい芸術と科学を取り入れる進歩的な女性であった。しかし公妃ルネの持ち込んだフランス文化は支配的で高くつくこと、また、エルコレは1534年10月31日、公爵位を継いだが、彼はローマ教皇アレクサンドル6世の孫に当たることもあり、パウルス3世に忠誠を誓った。彼は反フランスに鞍替えし、宮廷も反フランスに塗り替え、ルネが宮廷に抱えていたベルナルド・タッソやフルヴィオ・ペレグリーニ・モラトなどの学者や詩人を節約のためとして次々と解雇に追い込んだ。フェラーラは14世紀、エステ家によって整備された。(注:現在のフェラーラは、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にあるフェラーラ県の県都とその周辺地域。画像はエステ家の居城エステ城)

 ルネは国外のプロテスタント同調者ジャン・カルヴァン、ハインリヒ・ブリンガーらと文通をしており、ミサへの出席をやめたことなどから、エルコレは妻を異教徒だと告訴することになる。wikipediaなどを参照

序曲レナータの構成 ①異端審問

 序曲レナータは夫エルコレに告訴された場面から始まっている。審問官オリズによる異端審問(宗教裁判)がおこなわれ、2人の娘が彼女から連れ去られた。子供たちと再会するための条件として改宗させられ、1554年9月23日にはもう一度ミサを受けさせられた。プロテスタント信仰を撤回しても全財産は没収、身柄を拘束される。

 その5年後の1559年10月3日にエルコレが死亡、ルネは解放される。ギターソロの部分はその場面のようだ。しかしながら長男アルフォンソ2世・デステは宗教的異端である母をフランスへ送還する。画像は1633年、ガリレオの異端審問。それでも地球は動くとつぶやいた、とされる。

モンタルジの城

モンタルジの城
 ルネはフランスの私領地モンタルジの城 Le chateau de Montargis へ移り住んだ。城はプロテスタント建築家デュ・セルソーdu Cerceauにより礼拝の出来るように改造された。隠れ家ともいえるモンタルジはユグノー達の信仰の拠点となる。また、協調派の宰相ミシェル・ド・ロピタル、長編詩悲愴曲で有名なアグリッパ・ドビニエ、建築家ジャック・アンドリュー・デュ・セルソーの家族を受け入れるなど、義理の息子に迫害された人々の避難所にもなっていく。緩徐楽部はモンタルジの城での描写だろう。宗教戦争は激しさを増し、モンタルジの城も安全な隠れ家ではなくなっていった。

サンジェルマン・ロクセロワ教会

③サン・バルテルミの虐殺

 ルネはカソリック教徒がパリで2000~4000人、全仏で数万人のユグノーを虐殺する1572年8月24日サン・バルテルミの祝日に発生した事件(サン・バルテルミの虐殺; Saint-Barthélemy 聖バーソロミュー)に遭遇し、多くのユグノーらを救い出した。この虐殺はルネの長女アンナが結婚したフェラーラ公爵の息子フランソワ・デ・ギーズによって命じられた。画像はルーブル美術館の近くにあるサンジェルマン・ロクセロワ教会の鐘楼:カンパニーレ

 後半のアレグロの部分はこのサン・バルテルミの虐殺とルネの活躍をあらわしている。またアレグロの最初の2小節は虐殺の合図となったサンジェルマン・ロクセロワ教会の鐘の音(予備音)を描写している。鐘は真夜中から夜明けまで鳴り続け、パリでの虐殺は3日間続き、死体の多くはセーヌ川に投げ捨てられたという。(画像は虐殺跡を視察する母后カトリーヌ・ド・メディシス『ある朝のルーヴル宮城門』エドワール・ドゥバ・ポンサン画。1880年)

ルネの最後

  コーダ部分は前後のつながりが希薄で突如終わるような印象だが、サン・バルテルミ虐殺発生の3年後である1575年6月12日に自分の宗教的信条を守り通したルネの最後をあらわしている。彼女は葬儀を望まずモンタルジの礼拝堂(図)に埋葬されることを望んだが、彼女の息子、アルフォンソ2世の命令でカソリック聖職者によって葬儀が行われた。なお、彼女の亡骸はモンタルジの城のどこかに埋葬されているが、狂信者による冒涜を避けるため、埋葬場所は秘密にされ、今日まで発見されていない。

 このように序曲レナータはルネが主人公のユグノー戦争がテーマである

※ユグノー(フランス語: Huguenot)は、16世紀から17世紀の近世フランスにおける改革派教会、カルヴァン主義、カルヴァン派のことをいう。ユグノーとフランス王権やカソリック勢力の間の政治闘争を通じて、フランス絶対王政が形成された。

画像は天真爛漫な少女時代と晩年のルネの肖像画

 演奏時間 約9分

 ルネ・ド・フランスと細川ガラシャ

 ルネの生涯はほぼ同じ時代の日本の細川ガラシャを思い浮かべる。ガラシャは戦国時代の1563年に明智光秀の娘(たま)として生まれ、秀吉がバテレン追放令を出す中で洗礼を受けたが、最後はキリシタンとして壮絶な死を遂げた。享年38歳。散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 、が辞世の句。鈴木静一による劇的序楽細川ガラシャ(1968年)が知られている。

ラヴィトラーノの音楽と女性

キリスト教と音楽

 枢機卿のルイージを叔父にもち、敬虔なカソリック教徒の両親のもと、聖オーガスティン大教会のオルガニストに就き、長年にわたってフォリオのサンセバスティアーノ教会へのオルガン曲、聖歌と独唱曲を送り続けたラヴィトラーノがユグノーのルネ(レナータ)を取り上げたのにはどんな意味があるのだろうか。イスキアHPでのラヴィトラーノ伝記によれば、彼は両親により十字架に縛り付けられ、芸術的創造との狭間で葛藤していたという。

 ラヴィトラーノはマンドリン音楽を書かなくなり、晩年は経済的に困難であったと伝えられているが、レナータはそのきっかけとなっているのかもしれない。

ラヴィトラーノと女性

 ラヴィトラーノがマンドリン曲のテーマに取り上げたローラもレナータもヨーロッパで話題になった歴史上実在の人物だ。ローラは美しい容貌と踊りを武器に自由に生き、バイエルンの貴族にまでなったが、追放されて最後はニューヨークで全てを失い、半身不随の病気となり39歳で淋しく亡くなった。

 先進的な女性であったレナータ(ルネ)はローマカソリックを擁護する国や家族との逆境の中で自分の信仰を守り、宗教戦争のさなか、ユグノーとして死んでいった。

 ラヴィトラーノは生涯結婚せず、家族といえるのはフランスからアルジェリアに渡ってきた人達であった。彼はカソリック式の結婚式を挙げたくなかったのだろう。ラヴィトラーノはローラやレナータ(ルネ)のように激しく変動する歴史の中でも強く生きた女性の生き方にあこがれていたのではないかと思われる。(知久幹夫)

 ラヴィトラーノに関しては「ローラ」序曲参照