バルバットからマンドリンへ
マンドリンの源流を探ると、古代ペルシャのバルバット(barbat)に行き着く。アラビアでこれがウード(oud)となり、シルクロードを西に伝わり、ルネッサンス期からバロック期にかけて人気のあったリュートが派生した。一方、東に向かったバルバットは中国で琵琶となり、日本で雅楽に使われる楽琵琶をはじめ、平家琵琶、薩摩琵琶などになった。マンドリンはリュートから派生したマンドリーノとも呼ばれるマンドラが起源であり、1620年にイタリア・ヴェネツィアのパロッキ(Parocchia)によって考案された小型版がマンドリンと呼ばれている。ヴァイオリン製作者で有名なストラディバリウスも当初マンドリンを製作していた。(Wikipedia等を参照)
マンドリンの改良
初期のマンドリンはバロックマンドリンといわれ、6コースのガット弦をもつ。その後、イタリアのパスクアーレ・ヴィナッチャ(Pasquale Vinaccia1808?-1882 図)がナポリ型を参考に改良し、4コース8弦の鉄弦と機械式糸巻きを持つ形となり、それを継承した息子のジェンナロとアキッレの兄弟がヴィナッチャ兄弟社を設立、多くの優れた楽器を製作した。更にカラーチェ兄弟が楽器の品質向上を図り、現在に続いている。なお、カラーチェの楽器はその60%が日本向けだといわれている。
ヨーロッパのマンドリン音楽
19世紀から20世紀にイタリアでのマンドリン演奏はマルゲリータ皇后など王室のバックアップにより、隆盛を極めた。1870年代の終わり頃にはプロの名手も増加し、マンドリンアンサンブルが形成された。1881年 3月には皇后マルゲリータ王室マンドリン合奏団 (Circolo Reale Mandolinisti Regina
Margherita)を創設。マンドリン、マンドラ、ギター、ハープ2台とチェロ、ハープシコードの46名編成で当時最大のメンバーを擁していた。マンドリン合奏の基本的な楽器編成と人員参照
残念ながら、第一次大戦後は衰退し、その後1910年代から再度盛り上がりを見せたが、第二次世界大戦で痛手を負ってしまった。(画像はマルゲリータ皇后)
アメリカのマンドリン音楽
アメリカでは19世紀の後半にマンドリンオーケストラの音を大部分のアメリカ人が聞いたことがなかったため興味を持たれ、行進曲、ダンス曲、序曲などあらゆる種類の音楽に適用された。1908年には、フィラデルフィアのマンドリン奏者、指揮者、編曲家で出版社のハーバート・フォレスト・オデル(Odell, Herbert Forrest 1872-1926) が雑誌「クレッシェンド」を出版した。また「マンドリンオーケストラ」と題する90ページのマニュアルが1913年に出版されている。日本では1906年に出版されたオデルの教則本が現在でも多く使われている。
しかしながら第一次世界大戦後、静かで美しい平和的なマンドリン音楽は興味を失われ、ディキシーランドジャズなどに取って代わられた。現在ではミルウォーキー・マンドリン・オーケストラなどが古典的な楽器の演奏として残っている。1986年には古典的マンドリン協会CMSA(Classical Mandolin Society of America)が結成され、毎年コンベンション(総会)が開かれている。マンドリンの楽器はフラットとボールバックが半々だという。フラットマンドリンはギブソン(Orville Henry Gibson:画像左)が開発、ロイド・ロア(Lloyd Allayre:画像右)が改良して一般に広まった。(マンドリニスト ウォルター・カーター、石橋敬三氏による)
琵琶とマンドリンの競演
2016年5月22日に日伊国交樹立150周年記念公演「楽器は東へ西へ 琵琶とマンドリン」と題して琵琶とマンドリンの競演が横浜能楽堂で開催された。日本は薩摩琵琶の中村鶴城と楽琵琶の中村かほる。イタリアからはマンドリニストのウーゴ・オルランディが参加した。
ヴィヴァルディの合奏協奏曲
次の楽譜は1740年に作曲されたVivaldiの「合奏協奏曲ハ長調P133」である。いろいろな楽器の協奏曲と呼ばれ、多くの楽器が使われている。それらはフルート2、サルモ2、トロンバ・マリーナに似せたヴァイオリン2、マンドリン2、ティオルバ2、ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントランバス、通奏低音(チェンバロ)というもので、ヴェネツィアの慈善院付属音楽学校の少女たちによって演奏された。
ヴィヴァルディ:は上記合奏協奏曲以外にマンドリン協奏曲 ハ長調 RV 425や2つのマンドリンのための協奏曲 ト長調 RV 532を作曲している。