Bagni di Casciana, marcia バーニ・ディ・カシャーナ(カシアーナ温泉),行進曲  作曲 G.マネンテ op.392

カシャーナ温泉

カシャーナ温泉

 イタリア中央部トスカーナ州は20以上の温泉リゾートが散在している。ピサの斜塔で知られるピサ県にあるカシャーナ・テルメ(Terme 温泉)は皮膚病などの湯治場として有名であり、古い歴史を持っている。図は Book Casciana Apartments より。イタリアでは温泉に水着着用で入浴する、日本での温水プールのイメージ。水温も体温と同じ36度くらいのようだ。

バーニ・デ・カシャーナ

 カシャーナテルメ共同体(コムーネ)は1956年まで曲名と同じバーニ・ディ・カシャーナ(カシャーナの風呂)と呼ばれていて、11世紀に当地は地理的にイタリアの一部ではあるが、土地は神聖ローマ帝国の一部であり、支配者は神聖ローマ帝国に忠誠を誓っていた。2014年からは市町村合併で Casciana Terme Lari カシャーナ・テルメ・ラーリとなっている。カシャーナはカシャーナ・テルメ・ラーリの中心居住地区である分離集落(フラツィオーネ)であり、現在は Alta アルタになっている。図は20世紀初期のカシャーナスパ

温泉の発見

 その昔、トスカーナのマティルデ伯爵夫人 ( Matilde di Canossa 1046年?ルッカ - 1115年7月24日ボンデノ)は年老いて病弱なクロウタドリ(大型ツグミの一種:図)を飼っていた。あるとき灰色がかっていた羽が黒くなり、くちばしも明るい黄色に戻った。不思議に思った彼女はクロウタドリを追いかけたところ、温泉のお湯に浸かって回復した事を発見した。図は NATURFOTO より

マティルデ伯爵夫人

マティルデ大伯爵夫人

 マティルデはトスカーナ辺境伯ボニファチオと母ベアトリーチェの娘で大伯爵夫人(ラ・グラン・コンテッサ)と呼ばれている。(図)イタリアの歴史上最も強力な中世の支配者だった 。11世紀のヨーロッパでは、教会と国家の間に明確な境界が存在せず、多くの争いが起きていた。彼女は神聖ローマ帝国皇帝以上に教皇の支持者であり、教皇グレゴリウス7世と皇帝ハインリヒ4世の間に戦争が起こると、鎧をまとい軍隊の先陣を切って教皇のために戦った。

 1066年にアキノの戦い、1084年モデナの近くにあるハインリヒの兵士を攻撃、1087年の戦いでは軍隊をローマに導くなど、ハインリヒ4世が死去するまで一貫して教皇を支持した。この頃の歴史的逸話として知られている「カノッサの屈辱」は1077年の出来事。(Wikipedia、中野二郎の解説などを参照 図は August von Heyden、1827-1897によるエッチング)

カノッサ城

バーニ・ディ・カシャーナ(カシアーナ温泉),行進曲 Op.392

 本曲はジョゼッペ・マネンテによる作品392番、1929年に発表された比較的後期の作品で、原曲は吹奏楽曲であるが、ピアノ譜も発表されている。マンドリンアンサンブルの弦6部版は中野二郎による編曲。原曲には大太鼓とスネアドラムが入っている。マネンテは1912年頃トスカーナ州北部バーニ・ディ・カシャーナに近いピストイア Pistoia の歩兵第83連隊の楽長をつとめ、トスカーナ海岸のヴィアレッジョにあるプッチーニ学院 Centro Culturale Giacomo Puccini の教官もしていた。

 この曲はマネンテがバーニ・ディ・カシャーナの町のために作曲したもので、題名と曲想からマティルデ大伯爵夫人による神聖ローマ帝国との戦いに行く朝の騎兵行軍をテーマにしたと思われる。軍隊行進曲ではあるが、優しい旋律はマティルデ大伯爵夫人をイメージしているようだ。

 邦題のカシアーナの温泉やカシアーナ温泉で行進曲とも書いてなければ温泉が強調されて、曲とのイメージが合わない。また、カシアーナやカスチアーナはマンドリン関係だけで使われている。一般的にはカシャーナであり、曲の題名は町の名前のバーニ・ディ・カシャーナ行進曲が良い。なお、バーニ・ディ・カシャーナから100kmほど北にあるマティルデの所領であったカノッサ城(上図)からルネッサンス要塞までの道は現在騎士の道と呼ばれている。赤いバナーはカシャーナの市民バナー、クロウタドリが描かれている。(図)作者G.マネンテに関してはメリアの平原にてを参照

演奏時間

 約4分