日本のマンドリン音楽黎明期
日本にマンドリンが伝えられたのは、明治を代表する近代邦楽の作詞・作曲家である四竈訥治(しかまとつじ 嘉永7年3月12日新暦 1854年4月9日生~昭和3年 1928年7月9日歿)がイギリス人にマンドリンを贈られ 演奏したのが最初といわれている。四竈は1854年仙台に生まれ、東京に出て音楽取調掛(東京芸術大学音楽学部の前身)の伝習生(短期の教員養成機関である伝習所に学んだ者)となっている。薩摩琵琶曲の 石童丸※は彼の作詞による。また、西洋音楽を扱う最初の雑誌「音楽誌」を立ち上げ、主に歌と楽器教師のコレクションを集めた数多くの本を出版した。※吉水経和作曲。後に永田錦心が改良。錦心流の代表曲。
1894年、日清戦争開戦直後の9月に弥生館で開催された義勇奉公報国音楽会で四竈父娘それに天羽秀子の3人がマンドリン、ヴァイオリン、ハープの編成で 八千代獅子 を演奏した。この時のマンドリン、ヴァイオリン、ハープのトリオを 仙花楽 と名付けている。(画像は芝公園にあった芝弥生館)同じ明治27年(1894年)10月13日、アメリカのマンドリニスト、サムエル・アデルスタインが横浜でマンドリンの演奏を行っている。
比留間賢八(1867-1936)は明治32年(1899年)に農商務省の海外実習生として二度目のドイツ出張でイタリア人アッティレ・コルナーティにマンドリンとギターを学んでいる。またチェロとハーモニカも日本に初めて紹介している。
1901年には留学先のイタリアからマンドリンを持って帰国し、指導者となって普及に尽力した。詩人萩原朔太郎が比留間に師事し、マンドリンを演奏していたことが知られている。娘の比留間きぬ子(1915-2002)もマンドリン奏者として多くの人に教育を施した。
比留間賢八は日本でマンドリンを普及させるには舶来の楽器は高価であったため安く簡単で音程の確かな洋楽器を作ることが必要と考えた。鈴木政吉はこれに応え、比留間の持ち帰ったマンドリンを見本として共益商社の社長白井練一とによりマンドリンが製造され、1903年(明治36年)には国産初のマンドリンとして発売された。鈴木政吉のマンドリンは良質の材料を大量に仕入れ、装飾などを省いたコストパフォーマンスの高い楽器である。図は明治36年(1903年)日本で初めてマンドリンを製造販売した鈴木マンドリンの広告
また、大正年間に国島正治がマンドリン製造を始めている。大正7年の価格は8円から18円。当時の大卒初任給が40円だったことを考えると、買いやすい価格であり、マンドリン音楽の普及に貢献した。
マンドリン合奏団の設立
明治末から大正時代にマンドリン合奏団体が増加し、第一ピークとなった。慶應義塾マンドリンクラブは 明治43年(1910年)の創立である。大正4年(1915年)萩原朔太郎が前橋で結成した ゴンドラ洋楽会 は戦後の 群馬交響楽団 誕生の母体ともなった。宮内省楽部長だった武井守成がマンドリンの楽団を創設したのも同じく大正4年。その翌年、シンフォニア・マンドリニ・オルケストラと称し、大正12年(1923年)にはオルケスタ・シンフォニカ・タケヰと改称。慶応義塾大学マンドリンクラブOBの林によって作られた名古屋マンドリンクラブが第一回の演奏会を開いたのが大正8年(1919年)10月30日という。また仙台市の仙台マンドリンクラブの前身でアルモニアというマンドリン合奏団が澤口忠左衛門により大正12年(1923年)に創立されている。同じく大正12年明治大学マンドリン倶楽部設立。(画像は第2回モルトレヒトマンドリン演奏会パンフレット)
1925年にマンドリンの名手で、楽器製作家でもあるカラーチェが来日し、愛好家が一層増えた。写真は1924年カラーチェ来日時のオルケストラシンフォニカタケヰ
1918年(大正7年)6月1日に日本で最初にベートーベンの交響曲第9番合唱付きが演奏されたことで知られる徳島県鳴門市にあった板東俘虜収容所内にモルトレヒト( Paul Moltrecht )マンドリン楽団があり、”第9”演奏より1年前の1917年(大正6年)5月26日に第1回コンサートを開催している。鳴門市にはドイツ館(画像)があり、日独の交流を深めている。2018年6月1日には100周年記念の第9演奏会があり、600名の合唱を含む演奏が2日間にわたって行われた。
(YOUTUBEの例は初演時の様子を再現する「よみがえる『第九』演奏会」)
西洋音楽教育の始まり
西洋音楽をベースとした音楽教育の始まったのは文部省の音楽教育機関である音楽取調掛が1879年(明治12年)に設立されてからであり、当初は唱歌教育が主体であった。ヴァイオリンは、1880年(明治13年)音楽取調掛の教師として来日したアメリカ人ルーサー・ホワイティング・メーソンが日本人に教えたのが最初といわれている。
1915年(大正4年)頃にドイツ留学から戻った山田耕筰が音楽鑑賞サークル 東京フィルハーモニー協会 を設立し、演奏者を集めて管弦楽合奏を始めた。1924年(大正13年)にはヨーロッパ留学から戻った近衛秀麿の協力を得て 日本交響楽協会 を設立。 翌25年に近衛秀麿指揮で ベートーベンの「運命」 を、山田指揮で自作曲およびR.コルサコフの シェエラザード を演奏している。公演は全4日間で場所は歌舞伎座であった。1927年(昭和2年)に 新交響楽団 として最初の定期公演を開始する。このように日本における西洋音楽はマンドリンが先行したといえる。画像は1925年(大正14年)に、ロシアのオーケストラ35名を迎え日本交響楽団の35名を加えて4月26日から29日までの4日間、歌舞伎座で演奏会を開いたときに撮影された。
四竈訥治の6女四竈清子(1903-1965)もマンドリンを弾き、1931年にコロンビアから発売されたSPレコードの トラバトーレ( Verdi作曲 )を国立図書館デジタル音源で聞くことができる。1956年春 杉並マンドリン・アンサンブル に入会。四竈マンドリン研究所 を開設し10人ほどの生徒がいた。
ヨーロッパの衰退と日本の隆盛
イタリアやフランスなどヨーロッパのマンドリンは貴族や政府のバックアップで盛んだったが、第一次、第二次大戦で経済的に疲弊した結果、マンドリン音楽も衰退してしまった。日本では戦後の団塊世代が学生となる1960年代から70年代に大学のマンドリンクラブを主体とした再度の隆盛期を迎えた。これに対応して鈴木静一、服部正、大栗裕らが新たな作曲活動を行ない、大学では慶応の服部正、明治の古賀政男、日大の宮田俊一郎、同志社の中野二郎などがマンドリン合奏の指導者として活躍した。1970年代は日本のマンドリン合奏第2の隆盛期といえる。
その後減少したが、2000年頃からは団塊の世代 を中心とした社会人マンドリンサークルやマンドリン人口が増加している。多くは学生時代にやっていた人たちが第二の人生での楽しみとしてサークル活動に参 加していて、マンドリン音楽は現在でもアマチュア音楽家の間で広く親しまれている。
なお、QAZのマンドリンと旅行の小部屋の「マンドリン伝来」の資料が参考になる。
日本ではマンドリン音楽が西洋音楽の取り込みとして始まったが、その後一部はヴァイオリン、オーケストラに変わっていった。
齋藤秀雄
日本における西洋音楽を広めた第一人者である齋藤秀雄(1902年5月23日 - 1974年9月18日)は当初マンドリンを弾き、オルケストラ・エトワールというマンドリンアンサンブルを設立。フランス民謡「歌えよ小鳥やよ歌え」の主題による八つの変奏曲などマンドリン合奏の作曲も行っている。その後マンドリンは飽きたとして、ギターを手がけ、ヴァイオリンを経由してヴィオロンチェロに行き着いた。齋藤は小澤征爾、秋山和慶、山本直純など日本のクラシック音楽界を代表する人材を輩出した教育者、指揮者、チェリストである。
群馬フィルハーモニーオーケストラ
マンドリンを比留間賢八に師事した萩原朔太郎は1915(大正4)年に前橋で音楽愛好家を集めゴンドラ洋楽会を創立し、マンドリン合奏を始めた。その後、上毛マンドリン倶楽部と改名。1934(昭和9)年に高崎のリリアン・マンドリンクラブが上毛マンドリン倶楽部と合流。ヴァイオリンなどを加えて高崎音楽協会を結成。戦争中は井上房一郎を団長とする翼賛壮年団音楽挺身隊と名を変えたが1945(昭和20)年の終戦から間もない11月、高崎市民オーケストラを結成。翌年群馬フィルハーモニーオーケストラと改称され、現在に至る。
横浜交響楽団
明治40年(1907年)4月4日、横浜に生まれた小船幸次郎は横浜マンドリン倶楽部に入団、昭和4年(1928年)から3年間指揮を執っていた。このクラブで小舟はベートーベンの交響曲第1,第2,第3、ピアノ協奏曲1番、ドボルシャックの新世界、自作の交響曲第1番などを演奏した。昭和7年(1932年)12月、横浜マンドリン倶楽部を同時に退団した八十島外衛、田辺茂らと横浜交響楽団を結成した。当初メンバーはプロとアマチュアの混合だった。昭和8年(1933年)7月1日(日)第1回演奏会を開催、昭和29年からは定期演奏会をほぼ毎月開催している。
マンドリンの作曲家
日本には独学で音楽を勉強し、マンドリンの作曲や編曲の仕事をしている人も多いのだが、音楽大学を卒業し、プロとして作曲・編曲をしている人を挙げてみた。(卒業校、マンドリンのための作品)
齋藤秀雄(1902-1974) ライプツィヒ音楽学校
マンドリン小二重奏曲 蚊トンボ、フランス民謡 歌えよ小鳥やよ歌え の主題による八つの変奏曲
たかしまあきひこ(1943-2016)東京藝術大学作曲科
マンドリン合奏の為の序曲 マンドリン協奏曲 100人のマーチ
遠藤 雅夫(1947- )東京藝術大学大学院
2つのマンドリンのための 連星No.2 (1992) マンドリン協奏曲 フリック・フレックス・フロー(1997)マンドリンアンサンブルのための 響き・遊び・そして・・・No.3(1992)
藤掛廣幸 (1949- ) 愛知県立芸術大学
パストラル・ファンタジー(1975年)じょんがら(1977年) 詩的二章(1978年) グランド・シャコンヌ(1981年)
石村隆行 同志社大学マンドリンクラブ出身
イタリア、パドヴァのポリーニ音楽院マンドリン科 1993年 指揮及び編曲主体
二橋 潤一 (1950 - )東京芸術大学
神聖舞踏 カヴァティーナとロンドカプリチオーソ ディヴェルティメント
武藤理恵 (1960- ) 桐朋学園大学音楽学部ピアノ科
桜舞い散る小径 クリスマス・イブ Paradiso
遠藤秀安 (1970- ) 愛知県立芸術大学音楽学部作曲専攻
マーチ ジョイ・フライト (2017) Just Move On!ー前へー(2016)光輪(2015)
壺井一歩 (1975- ) 東京音楽大学作曲専攻研究生
星々の帰港 マンドリンのためのソネット 第6番 コバルト・エイジ
なお、酒井国作氏は愛知県立芸術大学作曲専攻課程修了、佐藤弘和氏は1988年弘前大学教育学部音楽科卒業で、いずれもギタリストでもある。
2009年11月 に柴田高明氏が日本のマンドリン教育についてヨーロッパで報告するための調査結果を掲載している。調査時期は2008年4月~8月
これによれば
•10歳代(中学生)以降で合奏団に所属して始める。
•合奏に入るまでの練習期間は6ヶ月以内
•オデルまたはムニエルによるマンドリン教本を使用
というもので、10歳以下でマンドリンを始めている人は皆無との調査結果であった。
このような状況をヨーロッパでは驚きを持って受け止められたという。
2018年現在、富山県には富山市立山田小学校と滑川市立南部小学校にマンドリンクラブがあり、4年生以上が参加している。小学校のマンドリンクラブとして特異な存在だろう。
ヴァイオリンなどの教育では日本のヴァイオリニスト鈴木鎮一(1898-1998)によって創始されたスズキ・メソードが世界的に有名だ。1946年の松本音楽院からスタートしているが、2011年で世界46カ国に広がっていて、米国にも30万人の生徒がいる。ヴァイオリンには分数ヴァイオリンといって1/16、1/8などという子供用の楽器もあり、2,3歳(身長105cm以下)から参加することができる。1/16楽器のサイズは大人用の約60%。なお、鈴木鎮一は鈴木政吉の次男である、(写真はオーストラリア・シドニーのスズキメソード発表会にて)
図は 鈴木ヴァイオリン製の子供用マンドリン
サイズは幅 14.5センチ 長さ46センチと大人用の約70%
複弦ではなく単弦だ。
音楽大学での取り組み
洗足学園音楽大学のワールドミュージックコースでは、従来、日本の音楽大学で専門教育が行われていなかった楽器も含め、多くの楽器から専門実技を選択し、奏法研究を行っている。
楽器にはギター、マンドリン、リュート、シタールなどの弦楽器、リコーダー、ケーナ、サンポーニャなどの管楽器、中近東や西アフリカの楽器などが含まれている。マンドリンの講師は石村隆行氏が担当している。