マネンテの生い立ち
ジュゼッペ・マネンテ(1867年2月3日モルコーネー1941年5月17日ローマ)はイタリアのベネヴェントBenevento県サンニオSannio地方のモルコーネMorconeにソレントとグリオネージの吹奏楽団の指揮者であるリボリオ・マネンテを父として生まれた。その父から最初の音楽教育を受け、グリオネージの吹奏楽団でトランペット奏者として活躍した。王立陸軍学校付属の軍学学校卒業の後、ナポリのサン・ピエトロ音楽院、マドリード音楽院、ローマのサンタ・チェチーリア国立アカデミアに学ぶ。ナポリではガゥティ、グァールロ、デ・ナルディス(De Nardis 1857-1951)に作曲、和声、対位法を、マドリード音楽院でエミリオ・セラーノにローマではデ・サンクティス(De Sanctis Cesare 1824-1951)に師事。
卒業後の活躍
1889年卒業後は歩兵第60連隊軍楽隊の指揮者に公募で就任した。
1918年にはアメリカ、フランス、イギリス、ベルギーで戦勝記念の演奏旅行を行い、成功を収めた。1921年から1924年までエジプトのフアード1世の軍楽隊長を、1924年にローマに財務省防衛隊の吹奏楽団が創設されると音楽監督に就任し、1932年に引退するまで務めた。またルッカ、ペーシャ、モンテカティーニ・テルメの市民吹奏楽団で指揮をし、各地の音楽雑誌に評論が掲載された。作曲は100曲以上の吹奏楽曲、35曲以上のマンドリン合奏曲、ピアノ曲など生涯に800曲以上を残している。日本では中野二郎により吹奏楽曲からマンドリン合奏曲に編曲されたものも20曲近くにのぼる。
メリアの平原にては、1909年ミラノの Il Plettro 誌主催の第2回作曲コンクールでアマデイの海の組曲に次いで第2位(実際は2位のない3位)に入賞し、名誉賞も受けたOverture 序曲であり、翌1910年同誌に掲載され、広く知られるようになった。英語にすると On the Plain of Melia だが、邦題ではメリアの平原にてとかメリアの平原に立ちてと訳されている。メリアの平原に立ちてと訳したのは武井守成による。
当初マンドリン合奏用の楽譜であったが、1911年にはマネンテ自身により改訂を加えられ、吹奏楽譜として出版された。吹奏楽版はマンドリン合奏のIl Plettro版に比べ調性がハ短調に移されている他、曲の最後Vivaceの小節が一部削除されているなどの違いがある。YOUTUBEの例はイタリア ポヴォレット市庁舎にて2017年2月12日に演奏されたセシリアの吹奏楽コンサート。アマチュア吹奏楽団の演奏と思われるが、参考にはなる。
日本で現在主に演奏されている楽譜には中野二郎が吹奏楽版をベースに改訂部分をマンドリン譜に付け加え、低音楽器としてマンドローネおよびキタローネを、また打楽器として、大太鼓、小太鼓、シンバルが書き加えられている。音のボリュームを出すために重音を多く使ったり、アルペジオの使用が多いことなどから演奏は技術的に難しい。
イタリアのメリアと作曲
イタリア南端レッジョ・カラブリア州にいくつかあるメリアのひとつ、アストラモンタナ海を望む小さな町の平坦地がメリアの平原にての場所の定説となっていて、マネンテは1893年から1897年の間に、第60歩兵連隊( Calabria旅団)の吹奏楽団が配置されたレッジョ・ディ・カラブリアに住んでいた。マネンテはここで作曲のインスピレーションを得たようだ。マネンテはまた、当地の Circolo Filodrammatico-Mandolinistico 哲学的マンドリンサークルのディレクターでもあった。なお、シチリアのメッシーナ州にも複数のメリアがあり、ギリシャ人たちは紀元前からこの地方の海岸地域に盛んに移住し、都市を築いた。これらのメリアは破壊された古代メリアを原郷とする人たちの町なのだろう。このレッジョ・カラブリアは9~10世紀にサラセン人によって破壊され、その後、ノルマン人によって再建。城や城壁が建てられたが、1807年5月28日のミレトスの戦いでレイニエ将軍によって指揮されたナポレオン軍によって破壊され、10年間統治されている。
写真はイタリア、レッジョ・カラブリア州のメリアから地中海メッシーナ海峡を挟んでシチリア島を望む。岡村光玉氏撮影 1989.7.23
ギリシャ神話のメリア
ギリシャ語でメリアμελιは蜂蜜を意味する。ギリシア神話ではメリア(図)はオケアノスとテティスの娘でトネリコの木に宿る神。初代アルゴス王のイナコスと結婚した。なお、古代ギリシアで槍の柄はトネリコの樹を用いてつくられていた。
モーツァルトの最初のオペラ アポロとヒアチントゥス K.38 にも登場する。アポロは突然羊飼いに姿を変えて現れ、ヒアチントゥス Hyakinthos の妹メリアと結婚したいと言い出す・・・メリア は当初登場していなかったが、オペラ上演にあたって台本作者が書き加えたようだ。
古代アナトリアの歴史
イスラエル王国は BC1000年ごろダヴィデ王により統一され 次のソロモン王の時( BC922)に崩壊、イスラエルは南北に分断した。その後アッシリア帝国が強大化してエジプトまで征服する。アッシリア王サルゴン2世により北のイスラエル王国は滅ぼされ( BC721/722年
)メリア、テーベなどの町は破壊された。その後リュディア王国メルムナス朝の始祖ギュゲス王がスミルナとミレトス一帯を侵略した。その息子アルデュスがプリエネを陥落した時には、既にコロフォンもリュディアのものになっていた。
このようにBC8~7世紀の小アジア(アナトリア:現在のトルコ西部)では,覇権がめまぐるしく交代した。このポリス・メリアはトルコの西の端、エーゲ海のサモス島に面しミュカレ山を背にした海岸にある。図は古代アナトリアをあらわす地図
ギリシア神話と大発掘時代
1870年ハインリッヒ・シュリーマン( Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann )による古代都市トロイアの発掘、1898年のウィーガンドWiegandによるプリエネ、ミレトス、サモス島といった小アジア西部(アナトリア)の発掘など、ギリシア神話が歴史上の事実となったこの時期は大発掘時代と呼ばれている。(図は古代メリアのミュカレ山 Academia.edu:学術論文共有サイト Alexander Herda 氏の論文等を参照)
古代アナトリアの戦い
BC8~7世紀、エーゲ海沿岸ではイオニア人が植民市(ポリス:都市国家)を作っていた。紀元前714年頃、ギミッラーヤと呼ばれる集団がウラルトゥの王を破ったという情報がアッシリアにもたらされた。これによりアッシリアのサルゴン2世(図)はウラルトゥに遠征し、勝利をおさめる。また遊牧騎馬民族のキンメリア人がリュディア王国をはじめ小アジアの大部分を侵略した。BC700年 にはサモス、ミレトス、プリエネ、およびコロフォンの連合によってアナトリアの都市国家メリアが破壊される。ギリシャ神話でメリアは女神なので、古代メリアの国は美しかったと思われる。
メリアの平原にて
マネンテ作曲のメリアの平原にてのテーマは発掘された古代遺跡から歴史的事実となった古代都市国家メリアと連合軍の激しい戦いをあらわしたのだろう。中間部は平和な時代のメリアを思い描いたと考えられ、シベリウスのフィンランディアを彷彿とさせる。フィンランディア(発表当初は「歴史的情景」の終末の「交響詩」)は1900年7月2日にヘルシンキで発表されるや、帝政ロシア政府がこの曲を演奏禁止処分にするなど、センセーションを引き起こした曲であり、メリアの平原作曲に当たり影響を受けた可能性がある。(知久幹夫)
1923年大正12年※ 1月21日に武井守成・シンフォニア・マンドリニ・オルケストラ主催により第1回全国マンドリン合奏団コンコルソが帝国ホテルで開催され、7団体が参加。課題曲はブラッコのロマンツァ(無言詩)であり、審査委員は、グリエル・ヅブラウィッチ教授、瀬戸口藤吉、大沼哲、小西誠一。結果は全員一致で「メリアの平原にて」を演奏した同志社が優勝した。同志社のメンバーは総勢18名であった。※この年の9月1日に関東大震災が起きている。
アナトリアと教会旋法
余談だが教会旋法はリュディア旋法、フリギア旋法、ミクソリディア旋法、エオリア旋法などアナトリアの名称が用いられ、ドレミファソラシドがイオニア旋法と呼ばれている。