ラヴィトラーノとイスキア大地震
ジャチント・ラヴィトラーノ(Giacinto Lavitorano 1875 Forio-1938.12.16 Bone)は1875年イタリア・ナポリ湾のイスキア島フォリオにフランチェスコの息子として生まれ、枢機卿の叔父ルイージのいることで裕福な生活を送っていた。しかし2,300人が犠牲となった1883年7月28日に発生した大地震によりイスキア島の経済は破壊され、金細工師の父は仕事を辞め、島民の多くは主にイスキア島のサンタンジェロ港から、ビジネスでの関連も深く、人々が親しんでいたという仏領アルジェリアの港町であるストラ、ボーヌ(Bone現在のannabaアンナバ)、アルジェ、フィリップヴィルなどへ木製の帆船で移民となって移動した。ボーヌ(アンナバ)はイスキア島から地中海を南西に600km、シシリー島から西に400kmほどの所にある。
この地震でラヴィトラーノの叔父が亡くなっている。兄弟は移り住んだボーヌでテーラーショップを開設したが、ジャチントは音楽の勉強を続けるためフォリオに残り、当初フランス人に音楽を学び、ナポリのサン・ピエトロ・ア・マイエラ音楽院 Conservatorio di musica San Pietro a Majella でフォルトゥッチ Fortucci のクラスに参加し、パオレッティ Paoletti に和声学と作曲法を学び、作曲に専念した。ここで、プレクトラム楽器のための最初の作品を書いている。画像は1883年のイスキア地震
ラヴィトラーノの音楽は世界中で評価されているが、マンドリン音楽はとりわけ日本で好まれている。写真と文はhttp://www.ischia.it/giacinto-lavitranoを参照
ソッコルソでの誓い
フォリオでラヴィトラーノは吹奏楽団のディレクターとなったが、別のディレクターとの意見の衝突などがあり、ここでは音楽の幅を広げられないとして、家族のいるボーヌ(現アンナバ)に移動した。彼がアルジェリアに移動することを決めたとき、ソッコルソの広場から海に大きな怒りの石を投げ込み、イスキアには決して戻らないと誓っている。ラヴィトラーノはアルジェリアでフランス国籍を取得し、名前も francese Hyacinthe フランシーズ・イァサント※とした。この頃が彼にとって最も充実した時期といえる。図はソッコルソの教会 ※この曲目解説ではラヴィトラーノの他の曲も含め親の命名したGiacintoで記す。
聖セバスチャン教会へ曲を送り続ける
しかし、彼はフォリオを忘れたわけではなく、イスキア島を去って7年後には悲しみの聖母に触発され、Desolata(荒涼)を作曲している。この曲は フォリオの聖セバスチャン教会で受難の日(キリストが十字架にかけられた日:復活祭前週の金曜日)に演奏されている。この作品の演奏を繰り返すことで、ラヴィトラーノの記憶と彼の音楽に対する賛辞を表している。図はイスキア島
ボーヌでの活躍
1900年にはイタリアの国王となったヴィットリオ・エマヌエーレ3世 Vittorio Emanuele III に献呈した曲が評価されている。その後、ボーヌの聖オーガスティン大教会のオルガニストとなり、オルガンとピアノのための曲や聖歌の他、主にギターとマンドリンの作曲に情熱を傾けた。作曲された作品はイタリアの音楽雑誌 L'Estudiantina 、コンサートや外国の多数の出版物に掲載された。
ボーヌで彼は音楽の才能を認められ、マンドリン合奏団を設立している。ボーヌからはヨーロッパへ何度か旅行で出かけている。図はボーヌ 現アンナバの街並み
サンサーンスの影響
アルジェリアにはサンサーンス(画像)がしばしば訪問し、そこでの彼との議論やスペイン、北イタリアへの旅行はラヴィトラーノの音楽や作曲の技術革新に大きな役割を果たした。それは、フランス印象派の作曲家であるドビュッシー、サティ、ラヴェル、ディーリアスなどの方法であり、エバネッセントな(evanescent はかない、一過性の)、より自由な作曲法といえる。
ラヴィトラーノの作品には異国情緒を感じる曲が多いが、彼は語学に長け、フランス語、イタリア語、スペイン語、アラビア語に堪能であったこともその要因といえるだろう。このころフランスのアカデミー・ポピュラー研究所のコンクールでは宗教作品 シャリテ Charitè が1位を、 L'Estudiantina のコンクールでは小序曲 Petite Ouverture が2位となるなど、多くの賞を獲得している。
しかしその後、家族がフランスに移住し、ラヴィトラーノの晩年は経済的に困窮したようだ。
アンナバ大聖堂
ラヴィトラーノがオルガニストを務めていたボーヌ(アンナバ)の聖アウグスチヌス大教会( La Basilique Saint Augustin:アンナバ大聖堂)1900年に竣工した。この丘からはアンナバの町全体が眺望できる。(雪の解説最後の部分も参照)
アンナバの街は緑が多く、フランス統治下の19世紀に街路が整然と区画され、パリと同じように建物の高さが揃っていて美しい。
ローラ序曲の背景
題名のローラは本名マリア・ギルバート Maria Dolores Eliza Rosanna Gilbert、芸名ローラ・モンテス Lola Montez から来ている。彼女は1818年?アイルランドのリメリックにてダブリン出身の婦人帽子屋の母と英領東インド陸軍大尉だった父の間に生まれ、その後、ブルーの瞳と黒髪を持つ美女に成長した。ローラはグラナダのロマ(ジプシー)の娘との触れ込みで、その美貌と踊りを武器に若い士官や作曲家・ピアニストのフランツ.・リスト、共和主義者のデュジャリエなどが恋人となった。
画像はルートヴィヒ1世とローラ:いずれもヨーゼフ・シュティーラー画
ローラのミュンヘン訪問
1846年にバイエルン(現在のドイツ・バイエルン州)の首都ミュンヘンを訪れたローラは第2代国王のルートヴィヒ1世 Ludwig Karl August に取り入り、愛人となった。ローラはランツフェルト伯爵婦人という称号を受け、貴族として王宮に出入りするようになる。(図はローラのダンス会場)
ルートヴィヒ1世
ルートヴィヒ1世は芸術を奨励し、ミュンヘンを世界に通用する芸術都市として発展させた国王であり、ミュンヘン郊外ニンフェンブルグ城に36人の女性肖像画を掲げた美人画ギャラリー(図)も有名。その一人にローラも納められている。
しかし、ルートヴィッヒ1世はローラとのスキャンダルが原因となった1848年革命がきっかけとなって失脚してしまう。
1848年革命
19世紀中頃のヨーロッパは保守反動の君主制国家に対する自由主義・ナショナリズムが台頭。各地で反乱が起こり、ウィーン体制が崩壊した時代であった。歴史的には1848年革命として知られている。ローラが政治に口を出し、ジェスイット派の大学教授の解雇と大学封鎖に反発した市民による1848年2月9日のデモは革命の年に起こった最初の事件といわれている。序曲ローラはローラ・モンテスの再入国に対し、国外追放を要求して暴徒化した1848年3月16日の暴動を題材にしている。ローラの考えは共和主義者のデュジャリエにより感化されている。画像は1848年ミュンヘン3月革命 Märzrevolution.
従って序曲ローラはローラがテーマと言うよりローラが主人公である1848年3月のミュンヘン革命がテーマといえる。曲の構成も第1主題が反乱、第2主題がローラとなっている。ラヴィトラーノの作曲にはテーマと曲名の合わないのがあり、注意が必要だ。画像はミュンヘンブルグ城(カナレット作)
曲の導入部は民衆がローラの館に近づく足音のような3連符で始まる。反乱のテーマが流れ、曲想は次々と変化する。続いてローラのテーマが堂々と奏でられる。中間部はルートヴィヒ1世とローラの会話のようだ。その直後、反乱市民が館に近づき、ローラはここを脱出する決心を固める。迫り来る市民からローラは彼女に想いを寄せる学生に助けられ無事に脱出する。最後は反乱市民の勝利が高らかに鳴り響き、曲が締めくくられる。(知久幹夫)
動画はギターの時間で取り上げられたコンコルディア40周年での演奏風景
演奏時間
約 8分40秒
楽器編成
弦6部