序曲第1番イ長調 op.1 Ouvertüre Nr.1 (A-Dur) K. ヴェルキ

Konrad Wölki

ヴェルキの生い立ちとドイツのマンドリン音楽

 コンラート・ヴェルキ(27.12.1904 Berlin-Moabit– 05.07.1983 Frohnau)は1904年にベルリンのモアビットで生まれた。幼少時に彼は男の子らしい明るい声のために1916年にベルリンロイヤルオペラ児童合唱団(現ベルリン国立歌劇場児童合唱団 下図)に入った。楽器に関してはマンドリンを Reinhold Vorpahl に師事し、Rudolf Gross から音楽理論の授業を受けた。

  マンドリンは17世紀中頃に登場したナポリ型マンドリンをビナッチャ(1808-1882)が1835年頃に改良し、エンベルガー(1856ー1943)が1880年に更に改良したマンドリンを製作している。

 イタリアにおいては王侯貴族のマルゲリータ(1851-1926)がマンドリン音楽をバックアップすることにより、サロン音楽から一般に普及した。フランスではイタリアから移住したマンドリンの名手が貴族の学生などの教育に当ったことから普及し、フランス革命(1789年)以前のパリで既に全盛期を迎え、その後下火になったが1920年頃に再び人気となっている。

 ドイツ語圏においてはヴィヴァルディ(1678-1741)ベートーベン(1770-1827)モーツァルト(1756-1791)パガニーニ(1782-1840)などがマンドリンの曲を書いたが、1820年から1860年の間にドイツ語圏のマンドリンの作曲はほとんど消滅してしまった。それはドイツ帝国の社会主義法によりマンドリンが危険だと考えられた事による。労働者音楽協会の設立に関しても政府は否定的だった。ドイツ統一を実現し、鉄血宰相と呼ばれたビスマルクが1890年に解任され、社会主義法は廃止。それに取って代わった労働保護法は労働者に自由な時間を与え、一緒に音楽を作る機会を与えた。

 ドイツの音楽で有名なバイロイト音楽祭は1876年に第1回が開催されている。また、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は1882年に創立された。この頃のマンドリン作曲家としてオーストリアのフェルディナンド・コルマネック( Ferdinand・Kollmaneck 1871.02.18-1941.07.13)が知られている。

 1900年前後のドイツではマンドリンやギターは主にプロレタリアート(労働者階級)および1896年に始められた青少年による野外活動であるワンダーフォーゲルの若者の楽器と見なされていた。ドイツ語圏の国に改めてマンドリンが普及するのは1895年頃からであり、フランス同様にイタリアからの指導者による。マンドリン部門のある労働者音楽協会は1900年の設立。ブルジョアジー(中産階級)メンバー主体のドイツマンドリニストとギタリスト協会は第一次大戦後の1919年の設立である。図は1910年のワンダーフォーゲルの青少年

ヴェルキのマンドリン音楽活動

 1914年に始まった第一次世界大戦が1918年にドイツなど中央同盟国の敗北で終わった。ヴェルキは職業として最初に製パン実習を受けた。また音楽を独学し、1922年には18歳でマンドリンオーケストラ・フィデリオを設立した。フィデリオは1937年にベルリン・リュートギルド Lautengilde に改名している。

 ヴェルキはドイツの近代的なマンドリン音楽の先駆者であった。彼は生涯に104曲の作品を遺しているが、その内容は、1920年代のトレモロ主体のロマン主義的管弦楽曲、1930年代半ばからのピッキング奏法主体の新古典主義の曲、1950年代以降の現代音楽と3っつの時代に分けることが出来る。

第一期 管楽器と打楽器を含むロマン主義的大編成オーケストラ曲

 ヴェルキは1924年に最初のマンドリンオーケストラの作曲である序曲第1番イ長調を発表している。1920年代のマンドリン音楽はイタリアが隆盛期であり、マネンテのカイロの思い出(1922)やマチョッキの美しきカスティーリャの娘(1921)サルヴェッティのトナーレ山の夏の夕暮(1922)など多くの曲がマンドリン専門誌に発表されている。

 ヴェルキはこれらイタリアの曲に対抗するかのように管楽器や打楽器を加えた大規模な曲である序曲第1番イ長調を発表した。その後、調を変えて序曲第6番まで作り、1楽章の交響曲ト短調Op.12などを作曲している。

楽器編成

 序曲第1番 Op.1 での弦楽器の編成はマンドリン(Mn)3部、マンドラ(Md)マンドロンチェロ(Mc)ギター(G)コントラバス(C-B)の7部となっている。ヴァイオリン系のオーケストラの編成はヴァイオリン(Vn)2部、ヴィオラ(Va)ヴィオロンチェロ(Vc)コントラバス(C-B)である。

 VnとVaの音程差は5度だが、MnとMdの音程差は8度オクターブとなっている。この隙間を埋める意味からMnは3部にしたと考えられる。また低音部はVc、最低音部がC-Bだがマンドリン編成ではMc、G、C-BとGが入っている。C-Bは擦弦楽器だがピチカートの場合にGとのオクターブ演奏はMcより効果的と思われる。ただしMdやMnでのトレモロ奏法に合わせるにはMcのトレモロは必要だろう。

 そういった事情からマンドリン系の弦楽編成は7部になったと思われる。他の序曲も同様の編成となっているが、Mn2部とMdを2部にしている曲もある。※楽器の弦長による音域と音程バランスを参照下さい。なお、第二次世界大戦後の1947年 Hans Ragotzky に掲載された序曲第5番 Ouvertüre Nr.5 in C-Dur,op.47 はマンドリンが2部でマンドロンチェロは入っていない。

 木管楽器はフルート(Fl)クラリネット(Cl)ファゴット(Fg)であり、MnからMcまでの音域をカバーできる。他の序曲などではオーボエ(Ob)を追加、Fl やCl を2本に増やしている曲もある。

 金管楽器はホルン(Hr)2本、トロンボーン(Tb)で中低音を担当している。その後トランペット(Tr)を追加した曲もある。

 打楽器はオーケストラで定番のティンパニ、大太鼓とシンバルの他、スネアドラム、トライアングルが使われている。曲によりグロッケンシュピールやタムタムを利用している。またハーモニウムを利用した曲もある。

 こういった楽器編成は鈴木静一(1901 - 1980)の編成と似ている。レギュラーオーケストラでは2管編成がオーソドックスだがマンドリンの場合はヴァイオリン系に比較して音が小さいため音量バランス上、シンプルな2管編成(1.5管編成)としている。この頃に作曲された管楽器と打楽器を入れたマンドリンオーケストラ曲をそのままの編成で演奏するには弦楽部は100名規模を必要とするだろう。例えば Die Heimreise, Ouvertüre, op.17(序曲 帰郷 1932年)ではフルート1、オーボエ1、クラリネット2、ファゴット1、ホルン2、トランペット1、トロンボーン1、ティンパニ、パーカッション、弦7部となっている。

 ※マンドリンオーケストラの大編成を参照ください。

二期 アンプロジウスの提唱したピッキング奏法主体の新古典形式

 ドイツのヘルマン・アンプロジウス( Hermann Ambrosius 図)は第一次世界大戦後、ライプツィヒで音楽の勉強を始め、交響曲を作曲している。1921年にベルリン芸術アカデミーに入学、1924年にマスタークラスを修了。その後、12の交響曲の他、3つのピアノ協奏曲、フルートとアコーディオンの二重奏、ヴィオロンチェロとオーケストラのための協奏曲、その他500曲以上の幅広い作品を残している。1930年代に提唱したツプフ音楽 Zupfmusik という小編成のマンドリンアンサンブルによる古典的演奏法はアンプロジウスの作曲の中で重要な位置を占めている。ツプフ音楽はピッキング奏法主体であり、曲調も旋律に重きを置くロマン派の影響が色濃いイタリアの作品とは異なり、楽曲の構造を重視したものであった。

 アンブロシウスは1933年からナチス党員であり、国民社会主義に基づいて、この新古典主義音楽が理論的支柱である組曲第6番 Suite Nr.6 für Zupforchester を1933年に作曲した。組曲の構成は  Präludium  Menuett  Sarabande  Gavotte  Badinerie ( Musette ) となっている。

ヴェルキの対応

 当時トレモロ多用のマンドリン音楽はイタリア人と見なされ、マンドリンの楽器も外国(敵国)の道具であったため、危険視された。※ヴェルキは大統領のフリードリヒ・フュルスト Friedrich Fürst に脅迫されている。

 ヴェルキはバロック音楽(ドイツ古典音楽)を参照することでマンドリンとギター音楽の独立性を示そうとし、アンプロジウスと同様に、ピッキング主体の小規模なツプフスタイルに転換。組曲第1番 Suite Nr.1 fur Zupforchester,  Op.29(1935)を作曲している。編成は Mn1,2、Md、Mc、G、C-Bであり、15名から20名程度のアンサンブルを意図していると思われる。

 バロック時代の組曲の構成はアルマンド・クーラント・サラバンド・ ジーグの4種類の舞曲を基本としている。この組曲第1番はプレリュード・クーラント・サラバンド・ ガヴォット・ジーグとなっている。アルマンド(Allemande)は、もともと「ドイツ風」という意味のフランス語なのでプレリュードに変更したようだ。なお、アンプロジウスはヴェルキより7年早い1897年生まれの作曲家である。

 その後、マンドリンの作曲はKurt Schwaen,(1909 - 2007)Heinrich Konietzny,(1910 - 1983)Dietrich Erdmann(1917 - 2009)Herbert Baumann(1925 - 2020)Siegfried Behrend,(1933 - 1990)などが続いている。

※第一次世界大戦で英米露仏日伊などは連合国、オスマン帝国(現トルコ)、ブルガリア王国などとともに中央同盟国であったドイツは敗北した。

世界恐慌とドイツ経済

 1929年10月にニューヨークのウォール街における株価大暴落から始まった世界恐慌はヨーロッパにもまたたくまに波及し、ドイツの経済に深刻な打撃を与えた。1931年5月にドイツ第2位の大銀行・ダナート銀行が倒産、ドイツの全銀行が8月5日まで閉鎖されたことで金融危機が起こり多くの企業が倒産、数百万人が失業した。マンドリンオーケストラにおいても大規模の人数で演奏会を開催することが経済的に困難になった。経済的閉塞状況の中で1933年1月、ヒトラーがドイツ政府の首相に任命され、その後、第二次世界大戦に向かって進んでいく。

第二期の作品例

組曲第1番 op.29(1935 Friedrich Hofmeister)

組曲第2番(1937年)簡単な祝典のための音楽

ブランデンブルク地方の音楽

小組曲ト長調 古典の旋律による

第三期 現代音楽(成熟期)

 1939年9月1日にドイツのポーランド侵攻によって開始された第二次世界大戦はフランスやソ連に戦線を拡大したが、ソ連の反撃や英国・連合国の爆撃を受け、ヒトラーが1945年4月30日に自殺、1945年5月7日フランスのランスで西側連合国に、5月9日にはベルリンでソ連軍に無条件降伏し終戦となった。

 第二次世界大戦後の1950年代以降、実験的で前衛的な音楽が台頭し、ヴェルキも従来よりモダンなハーモニーとリズムを使用した。しかし、彼は当時の実験的・前衛的な音楽は取り込まず、新古典主義またはポストロマンティックな叙情性を放棄することはなかった。またマンドリンオーケストラのために40曲ほどの音楽をアレンジした。ヴェルキは1983年7月5日にベルリン-フロナウで亡くなった。 7月19日の彼の葬式では Lute Guild の元メンバーが、Suite No.1 を演奏した。

(前衛的なドイツのマンドリン曲の例 In Memoriam à Siegfried Behrend )

第三期の作品例

ヴァイオリンと2本のフルートとマンドリンオーケストラのための協奏曲イ短調(1954)op.57

熱情組曲 op.56c (1975)

ウィーンコンサート op.86 (1979)

 なお、序曲第5番(1947)序曲第6番(1980)は大型のオーケストラに戻っており、ヴェルキは本来大型のオーケストラ曲が作りたかったのではないか。

音楽教育

 ヴェルキは1934年から1940年までベルリンのスターン音楽院(1945年以降は市立音楽院)で撥弦楽器の教師を務め、1939年からは国家音楽教師試験のための委員会メンバーとなった。また、プロイセン芸術アカデミーとライヒの民俗音楽協会のために、民俗音楽の問題に関する助言活動を行い、1948年から1959年までベルリン・ライニッケンドルフの民俗音楽学校の監督もしている。画像はマンドリンの教則本「マンドリンスクール」

 1954年に最初の指揮講座を実施したザールランド Saarland のオーバータール Oberthal では連邦音楽祭にゲストとして2日間参加した。その後同じザールランドのトーライTholeyでも指揮コースを開催している。

1962年から1966年にはベルリンの市立音楽院で青少年音楽教育者のためのセミナー責任者を務めた。 なお市立音楽院は後の州立大学音楽・舞台芸術大学、現在の芸術大学である。

1972年リュートギルド LutenGuild の監督を妻のゲルダ Gerda に引き渡した。ゲルダは1953年から青年オーケストラを、1958年から協会のギター合唱団を指揮していた。

引退後もフリーランスの作曲家や Jugend musiziert(音楽資金調達プロジェクト)コンペティションの審査員として活躍している。

 

 上記のような活動によって、ヴェルキはアマチュア音楽の分野であるドイツのマンドリン音楽を一般的な音楽への地位向上に貢献した最初の1人であると考えられている。

 本邦では序曲1番、2番、3番、4番、一楽章の交響曲、組曲1番、2番、帰郷( Die Heimreise )、大いなる時 Die große Stunde,ein Festliches Stüc、熱情組曲などが取り上げられている。

著書

 ヴェルキは多くの民俗楽器のための音楽作品や教科書の著作がある。またマンドリン、ギター、アコーディオン、フルートのための教則本や練習曲集、撥弦楽器に関する論文も上梓している。

彼は数多くの楽譜、文章、出版物を系統的に整理し「コンラートヴェルキコレクション」としてまとめ、音楽の町として有名なトロッシンゲン Trosssingen(図)で入手可能な書類として収録した。

序曲第1番 イ長調 作品1 Ouvertüre Nr.1 (A-Dur) Op.1

 ヴェルキが20歳の1924年に初めて作曲したマンドリンオーケストラ曲である。その後 fis-Moll、D-Dur、h-Moll、C-Dur、G-Durと調性を変えて序曲第6番まで管弦楽スタイルで作曲されている。

第1番はイ長調で書かれた。イ音(A音)はマンドリンやマンドラの第2線、マンドロンチェロの第1線、ギターの第5弦が開放弦であり良く響く。

 曲の冒頭はイ長調の主和音がマンドリンとマンドラに割り当てられ、ゆったりした Adagio で序奏のメロディーが始まる。その後、属調であるホ長調の経過部を経てからギターの軽快な和音の伴奏に乗ってアレグロの第1テーマに繋がっている。中間部に Andante の緩徐楽部があり、その後 Alleglo になるが、これはイタリアの形式を意識しているようだ。しかし全体としてはドイツ的な律儀さの感じられるオーソドックスな作曲スタイルとなっている。

 本邦ではヴェルキの作品の中でこの序曲1番の演奏機会が最も多いと思われる。ただし編成は弦楽のみ、またはフルートおよびティンパニを加えた演奏が多い。

編成 フルート1、クラリネット1、ファゴット1、ホルン2、トロンボーン1、トライアングル、スネアドラム、シンバル、大太鼓、ティンパニ、マンドリン1、2、3、マンドラ、マンドロンチェロ、ギター、コントラバスの弦7部

演奏時間 約9分