糸杉の林にて Fra i Cipressi  ジャコモ・サルトーリ作曲 Giacomo Sartori

サルトーリの生い立ち
(1860年3月8日アーラ ー 1946年3月25日トレント)
サルトーリはイタリア アーラ Ala ※ 生まれの作曲家、オルガニスト、吹奏楽団のマスター、オーケストラのディレクター、指揮者であった。
 ジャコモは父ドメニコ・サルトーリ Domenico Sartori と母ヘドヴィヒ・ラッターリ Hedwig Lutteri の息子である。理髪師であった父ドメニコの仕事を手伝っていて、後を引き継ぐはずだったが、マンドリンを独学し、18歳の時に作曲するなど音楽の道に進んだ。1898年3月にアーラの音楽協会 Musikgesellschaft von Ala にバイオリン研修生として入学し、アーラの北、トレントとの中間にあるロヴェレートでバイオリンをティト・ブロギアルディ Tito Brogialdi に、作曲をジョバンニ・トーサ Giovanni Tosaに学んだ。
※アーラ Ala は、イタリア共和国北部トレンティーノ=アルト・アディジェ州トレント自治県(チロル地方)にあるコムーネ(基礎自治体)であり、第一次大戦の最初の休戦交渉が行われた場所でもある。画像は Ala の街 Wikipediaより。

 その後アーラで彼は地元の音楽家として評価が高まり、吹奏楽団のマスターが不在のときに代理での指揮を、町の音楽学校で教師および吹奏楽の指揮をした。また教区教会で長いことオルガンを弾いていた。サルトーリのオルガンを聞くためにミサに参加する人も多かったという。1888年1月26日、ヴァイオリン奏者としてアーラの フィラルモニカ ホールで最初の公演を行っている。曲目はG.マイアベーア   Giacomo Meyerbeer  のファンタジー作品である 悪魔のロベール Roberto il Diavolo  、ピアノ伴奏はロレンツォ・フライリッチであった。

  1889年にボルツァーノ自治県アッピアーノ Appiano のエルビラ・ワグマイスター Elvira Wagmeister と結婚し、4人の子供をもうけた。彼は1895年にドニゼッティの歌劇 ランメルモールのルチア Lucia di Lammermoor 公演などのイベントを招聘し、チケットの販売は彼の理髪店を提供している。理髪店の仕事は続けていたようだ。また、吹奏楽とミュージカル協会の20周年には行進曲 二十周年 を作曲、1901年には子供の結核感染予防の組織ソシエタ・ホスピス・マリーニのために慈善演奏会を開催するなど、アーラの街のために貢献した。1905年に息子のニノが幼くして亡くなったが、地元の人達は親身になってその死を悼んだという。

画像はイングリッシュ・ナショナル・オペラ( ENO )のランメルモールのルチア2018年公演の一場面

  第一次世界大戦中アーラは爆撃の脅威にさらされていたため、サルトーリは南のヴェローナに疎開した。そこでシンフォニーコンサートの第一ヴァイオリンを数多く担当している。戦後はアーラに戻らず子供と州都であるトレントに移り、音楽専門に活動した。トレントでは1938年まで、マエストロ・ヴィジリオ・キルヒナー Maestro Vigilio Kirchner の代わりにマンドリンオーケストラ クラブ・アルモニアを指揮し、州内の町やイタリアの多くの都市で演奏した。

画像はトレントの街(パノラマ) Wikipediaより

プレクトラム音楽専門
 彼はヴァイオリンの個人指導とプレクトラム音楽の専門家となり、マンドリンとギターのためのソロ、カルテット、オーケストラ曲などを作曲するようになった。作曲された作品は1894年から1939年までトリノの雑誌イル・マンドリーノ IlMandolino とミラノのマンドリーニスタ・イタリアーノ MandolinistaItaliano に定期的に掲載されている。イル・マンドリーノ編集のジュゼッペ・モンティコーネはサルトリの作品を称賛している。特にフローラは評判を呼び、その後、彼のために紙面を広く空けていたという。
 作品のうち7曲が作曲コンクールに入賞し、サルトーリの名が広く知られるようになった。彼の名声はヨーロッパ、南アメリカ、オーストラリア、そして日本に広がり、いくつかの外国のマンドリンアンサンブルが彼の名を冠している。サルトーリの作品はアマチュアアンサンブルのためのものだがワルツが41曲と多いこともあり、マンドリンのレハール と称えられている。他に曲種別では行進曲13、マズルカ13、ポルカ13、セレナーデ10、フォックストロット3、タンゴ2曲など。1946年3月25日トレントにて没する。
 アーラ市は1950年にサルトーリの第2の家とも言える市立劇場を ジャコモ・サルトーリ劇場 と命名することによって、彼の功績を称えた。1996年の秋に音楽協会は市の後援によりサルトーリの没後50周年を追悼した。(画像はサルトーリのカルテット)

アーラのマンドリンコンクール
 イタリアの代表的なマンドリニストおよびマンドリン音楽の研究者でもあるウーゴ・オルランディ氏が芸術監督として1995年にアーラで設置され、1997年から開催されているマンドリンコンクールは、マンドリン楽器によるジャコモ・サルトーリ国際コンクール と彼の名前を冠している。第6回(エディション)となる2017年の大会にはイタリア、スペイン、クロアチアなどから15のグループが参加し、アーラ劇場での2日間のコンサートが行われた。日本からも柳沢昭が審査員の一人として参加している。カテゴリーCのオーケストラ部門ではスペイングラナダ近郊のフロレンシオ・ロジ・ロドリゲスが指揮したオルケストラ・デ・レクトロ・トーレ・デル・アルファイラーが優勝した。2019年には第7エディションが開催されている。

主な作品
 サルトーリの曲はエレジー、セレナーデ、ファンタジー、メヌエット、ダンス、プレリュード、オペラ、賛美歌など多岐にわたり、知られている作曲は300曲といわれている。メランコリーなエレジーとセレナーデ、軽快なダンス曲などその多くは伝統的なイタリアの楽曲に基づいている。1990年に彼の作品はアーラ市の市立図書館に寄贈された。作品は約150曲残されているが、その大半はイル・マンドリーノ誌から出版されている。

 主な作品はフローラ、音楽の印象 Impresioni Musicali、ワルツフィオルディロック Fior di roccia(岩の花)、糸杉の林にて Fra i Cipressi、降誕祭の夜 Notte di Natale など、作品には花の題名が多い。楽器編成別では2つのマンドリンとギターのトリオ56、4重奏43、小さなオーケストラのための曲13、マンドリンとギターのデュエット9、ギターソロ7曲などがある。ボルツァーノのマンドリンオーケストラ ユーテルペ Euterpe  はサルトーリの作品を常に演奏会プログラムに入れている。

尾崎譜庫での解説、ドイツ語のサルトーリ伝記等を参照

糸杉の林にて Fra i Cipressi

 ジャコモ・サルトーリ作曲の 糸杉の林にて は1906年、トリノのイル・マンドリーノに掲載された作品で、静かな情感あふれる曲。糸杉は樹形がきれいな円錐形になるため、クリスマスツリーに使われるが、イエス・キリストが磔にされた十字架は、この木で作られたという伝説から死や喪の象徴となっていて、墓地によく植えられている。花言葉は死・哀悼・絶望。

 曲はイ短調の重苦しい低音のメロディに始まり、宗教的な雰囲気もある高音のメロディに移る。その後、思い出を語るようなマンドラのメロディになる。後半はやや明るいイ長調に変わり、最後は静かに曲が閉じられる。サルトーリは幼い息子のニノを1905年に亡くしていて、その時の気持ちを表わしたニノへのエレジー( elegy 悲歌、哀歌)とも言える曲なのだろう。Fra i Cipressi は糸杉の林にて と和訳されているが直訳すると 糸杉の樹の間に であり、そこにはニノのお墓があるのではないかと思われる。(知久幹夫)

 画像はイタリア トスカーナ州オルチャ渓谷の糸杉の林

原編成 マンドリン四重奏

演奏時間 約5分