曲の概要
交響的間奏曲 晩年に はラヴィトラーノが58歳の1933年にマチョッキ主宰のエストゥディアンティーナ誌に掲載された作品である。京大出身のマンドリン愛好研究家で医師の鳥井諒二郎はエステユディアンティナ誌を継続購読しており、中野二郎がその中にこの作品を見出し同好者にコピーを頒布したことで、広く知られるようになった。
1900年頃のフランスやイタリアの平均寿命は40代中頃から後半であり、58歳のラヴィトラーノは当時の平均寿命を越えており、晩年に はラヴィトラーノが亡くなる5年前の文字通り晩年の作品である。原題はフランス語だが直訳すると「人生の夕暮れ」となる。
スコアの冒頭には「穏やかな愁いに満ちて日が落ちる黄昏時、万人に数々の幸せも数々の悲しみも与えるものこそ死」と記されている。これはフランスの詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(Alphonse Marie Louis de Prat de Lamartine, 1790 年10月21日マコン - 1869年2月28日パリ)の詩集文学の分かりやすい講義から第2章葡萄の樹と家の中の一節である。また楽譜中にも「物の終りの苦悩至福などなべて与うる爽やの憂悶に落つる夕」(店村新次訳)という詩の一節が載っている。尾崎譜庫の解説などを参照
詩人ラマルティーヌ
ラマルティーヌはロマン派の代表的詩人で、フランスにおける近代抒情詩の祖といわれる。その後、ラヴィトラーノがローラで取り上げた1848年3月革命の時に仏国臨時政府の外務大臣となっている。しかし同年12月の大統領選挙ではルイ=ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン3世)と争って敗れ、晩年は借財などで不遇であった。これはラヴィトラーノと似た境遇といえ、そういった意味でも共感を得ていたと思われる。
初期の作品との違い
晩年に など1933年頃に作曲された作品は初期の3大序曲とは作風が異なり、自分の過去を振り返るとともに、内面的な感情を音楽にあらわしている。
交響的間奏曲 晩年に の冒頭はギターのアルペジオが4小節続く。初めの2小節は不協和音だが後半は落ち着いた和音に戻り、静かなメロディーに繋がっている。メロディーにはラヴィトラーノらしさが感じられる。その後ラヴィトラーノの波乱の人生を表すようないくつかの激しいモチーフが現れ、曲想は揺れ動くが、コーダ部分は最初のメロディーがpからffにクレッシェンドして繰り返され、最後はギターのアルペジオが消えるように奏され、曲が終わる。画像は1883年のイスキア地震。この地震によりラヴィトラーノの家族はボーヌに移動した。
作曲の休止と再開
ラヴィトラーノは第一次世界大戦以後、マンドリンの作品を発表していなかった。約20年の間を置いて1933年に作曲を再開している。
ラヴィトラーノは枢機卿を叔父にもつ敬虔なカソリックの家庭に育ち、生まれ故郷イスキア島フォリオのサンセバスティアーノ教会に向けた教会音楽を数多く作曲しているが、マンドリンの曲はそれとは異なった世界を描いている。初期の3大序曲は宗教的、思想的争いがテーマであり、ローラはミュンヘンでの君主制国家に対する自由主義・ナショナリズムの反乱、レナータはローマカソリックとユグノー派のプロテスタントによるユグノー戦争、雪はローマカソリックとイスラムの対立であるレコンキスタがテーマである。(知久幹夫)画像はラヴィトラーノがオルガニストだったボーヌのアウグスティヌス大聖堂
ラヴィトラーノにとってマンドリン音楽はカソリックから距離を置いた自由な芸術的発想の作品といえる。しかし1910年から約20年間マンドリンの作曲活動を休止する。その頃のラヴィトラーノの境遇は雪の解説の「1910年代 世界の動向」以降をご参照いただきたい。
1932年~1934年にかけて、この晩年にの他、全ては去りぬ、コロンビーヌ(道化師)などが作曲された後、1938年12月16日に生活拠点であったアルジェリアのボーヌ(bone現アンナバAnnaba)で一生を終えている。
ラヴィトラーノに関しては序曲ローラを参照
編成:弦6部 原曲は弦4部(4重奏)中野二郎によりマンドロンチェロとコントラバスが追加されている。
演奏時間:約9分