雪 ~ロマンツァとボレロ~ ラヴィトラーノ NIEVES ~Romanza e Bolero~ 作曲:Giacinto Lavitrano

作品の概要

 ラヴィトラーノ Giacinto  Lavitrano 作曲の雪 NIEVES ~Romanza e Bolero~ はミラノでのイル・プレットロ Il Plettro 誌主催1908年コンクールの幻想曲、前奏曲、間奏曲、セレナータ等部門で応募作品19の中から多くの審査員に支持されて一位に入賞した作品であり、イル・プレットロから1910年1月に出版されている。イル・プレットロ誌主幹のアレッサンドロ・ヴィッツァリは「雪~ロマンツァとボレロ~」の出版にあたり、ラヴィトラーノの写真と経歴を掲げ「非凡な音楽家ラヴィトラーノ教授は、また数ヶ国語に通じる博識家で我々の喜びと心からの尊敬をおくる」と述べている。尾崎譜庫の解説等参照 ラヴィトラーノについてはローラ参照

 

改題された「雪」

 作曲当初の題名は「ボレロ」だったが、出版にあたって四重奏のための雪~ロマンツァとボレロ~と改題された。原曲は第1第2マンドリン、マンドラ、ギターの4重奏だが、中野二郎によって、マンドロンチェロ、コントラバス、及びタンバリンとカスタネットが加えられた。現在ではこの編曲版の合奏曲で演奏されることが多い。ボレロはスペインの18世紀以後の音楽様式だが、その元であるセギディーリャスはラ・マンチャが本場の舞踊曲。ボレロはこの派生形としてマドリードで発生した。セギディーリャスは16世紀頃から盛んに作られ、国民的な音楽となっている。雪でのボレロのリズムは実際にはボレロではなくセギディーリャスだが、これはスペイン地方の音楽を代表している。コンコルディア曲目解説集の中野二郎による雪の解説等を参照

 

作曲の背景と要素

 ラヴィトラーノの雪はローラ、レナータと並ぶ、初期の代表的3曲の1曲である。ローラはミュンヘンの反乱、レナータはユグノー戦争と、ラヴィトラーノはいずれも歴史上の出来事を作曲のテーマにしている。(知久幹夫)従って同時期に作曲された雪も同様に歴史の一断面を捉えていると考えられる。題名から歴史上の出来事を予想することが困難だが、楽曲のモチーフと一部の情報から推定して組み立てた。

 ラヴィトラーノは移住した仏領アルジェリアのボーヌ(現アンナバ)から北イタリアやスペインなど、ヨーロッパ各地に旅行している。雪はラヴィトラーノがスペインを訪れたときにインスピレーションを得てマンドリン音楽に取り込んだと思われる。訪問したのはシェラネバダ山脈の麓、スペイン南部の地中海に近い地方のマラガ、セビリアからグラナダあたりだろう。作曲当初の「ボレロ」から改題された雪~ロマンツァとボレロ~のスペイン語で書かれた“ 雪 NIEVES ”はグラナダから見えるシェラネバダ山脈の雪をあらわし、イタリア語で書かれている副題のロマンツァ Romanza  は現代の音楽用語としては叙情的で甘美な音楽形式を指すが、本来はローマ風を意味する。ここではローマカソリックの影響を暗示している。なお、楽譜には発想記号としての Romanza は見当たらない。”ボレロ”はスペイン地方の舞踊曲、実際には古くから伝わるセギディーリャス Seguidillas である。

 

ナスル朝グラナダ王国

 アラビア語で赤い城を意味するアルハンブラ宮殿で有名なグラナダは西暦711年にジブラルタル海峡を渡ってきたイスラム教徒の時代に文化的に発展し、栄華を極めた。1236年コルドバ陥落後、西イスラム王国の知識人や職人たちは大挙してグラナダに移り住んだので、グラナダはスペイン・イスラム社会最後の首都として栄えた。

 このナスル朝グラナダはイスラム以外の宗教にも寛大であり、異なった考えや宗教が2世紀以上にもわたって共存したことで知られている。当時キリスト教世界で弾圧されていたユダヤ人も多く居住していた。図は1147年マラケシュMarrakeshの戦いに使われた軍団旗バナーの一部

レコンキスタ

  14世紀半ば、キリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動であるレコンキスタ Reconquista はカスティーリア王国が主導していた。一方マリーン朝の内紛を収拾したアブー・アルハサン・アリーのマリーン朝・ナスル朝連合軍がカスティーリャ・ポルトガル連合軍に1340年サラード川の戦い  es:Batalla del Salado で敗れ、単独でカスティーリャ王国に対抗することが困難であったナスル朝にとって、独立を危ぶませる事態となった。

  雪はこういった状況のナスル朝時代のグラナダ王国とシェラネバダ山脈をテーマにしている。シェラネバダ Sierra Nevada とはスペイン語で積雪のある山脈である。図はサラードの戦い

雪~ロマンツァとボレロ~の構成

 曲は短いコーランの祈りかグラナダの嘆きのようなイスラム旋律の序奏で始まる。次にスペインの喧噪をあらわす激しいボレロ(セギディーリャス)のリズム、そして堂々としたメロディが続く。これはポルトガル=カスティーリャ王国のキリスト教連合などによるグラナダに対する攻勢のようだ。これらのメロディが交錯しながら曲は進んでいく。写真はアルハンブラ宮殿とシェラネバダ山脈

シェラネバダの雪

 緩徐楽部 Andante 6/8 は万年雪をかぶったシェラネバダ山脈の情景をあらわしている。シェラネバダ山脈の主峰、3,478.6mのムラセン山はその後ナスル朝 最後の君主ムハンマド11世(ボアブディルの父)アブルハサン・アリーが山頂に埋葬されたとする伝説になるグラナダ王国の象徴でもある。グラナダにとってシエラネバダ山脈は最大の天険防御となっていて、キリスト教勢力は容易にこれを突破することはできなかった。グラナダから望まれるシェラネバダの静謐なたたずまいを心象風景として表現したのがラヴィトラーノの雪の意味である。静かで深閑としたメロディは地上の争いを天上から俯瞰しているようにも聞こえる。Wikiなど参照

レコンキスタの展開

 追いかけられるようなメロディはレコンキスタの展開をあらわしている。ナスル朝期にレコンキスタはカスティーリャ王国が主導し、その勢力はグラナダ近くのコルドバやセビリアまで迫っていた。スペインイスラム最後の砦であるグラナダもいよいよ陥落かと思われたが、レコンキスタは一時停止する。

 図はグラナダのナスリッドスルタン、1431年の戦い

黒死病

黒死病

 曲の途中で突然止まる部分はヨーロッパで大流行し、全ヨーロッパに蔓延、人口の1/3にあたる2000~3000万人の病没者を出した黒死病(ペスト)によるパンデミックである。黒死病は中国大陸で発生し、中央アジアから1347年10月、イタリアのシチリア島メッシーナに上陸し、1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わった。その後、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返している。 グラナダに束の間の平和が訪れ、マリーン朝はこの後大規模な軍をアンダルスに派遣することがなくなり、ナスル朝への介入もなくなった。こうした状況下で、ナスル朝はその命脈を保つとともに、徐々に国力を充実させていった。絵はミシェルセールによる

「雪」のエンディング 

 曲の最後はイスラムのテーマとスペイン・セビリアの長調になったメロディが続けて強奏され曲は閉じる。曲の最後がイスラムとセビリアのメロディの強奏で終わっているのはキリスト教系スペインがイスラムを制圧したようにも聞こえる。しかし、スペイン・イスラム社会最後の首都グラナダを象徴する雪は出版に当たって改めて付けられたこと、NIEVES がスペイン語の大文字で記され、Romanza e Bolero  は小文字で書かれていることを考え合わせると、イスラム教世界とキリスト教世界を平和に共存させたいとするラヴィトラーノの願いのようにも聞こえる。従って、雪のテーマはレコンキスタへのグラナダの抵抗といえる。ラヴィトラーノの作曲にはテーマと曲名の合わないのがあり、注意が必要だ。
 ISCHIAのWebサイトL'ISCLANO、giacinto-lavitrano (http://www.ischia.it/giacinto-lavitrano )等参照

ラヴィトラーノに関してはローラを参照

編成:弦6部(原曲は弦4部)カスタネット、タンバリン

演奏時間:約6分30秒

題名の雪~ロマンツァとボレロ~

 曲名の NIEVESはスペイン語、Romanzaはイタリア語を使っている。ラヴィトラーノは4カ国語を自由に操っていることから、曲の題名も意図的に各国語を使っているようだ。

 雪はナスル朝のグラナダ王国がテーマだがグラナダを題名にするとイスラムを肯定していると誤解される恐れから、その象徴であるムラセン山の雪を題名にしたとも考えられる。なお、この頃ラヴィトラーノはフランス印象派の影響も受けていることから歴史的事件を具体的に描写しているのではなく、レコンキスタやムラセン山の雪などを印象的に表現しているのかもしれない。

 当初の題名であるボレロは19世紀に広まった音楽だが、雪のテーマとなったグラナダのナスル朝期は15世紀であり、時代が異なっている。実際のリズムであるセギディーリャスはスペインに古くから伝わる踊りであり、15世紀ごろから知られている。ここにもラヴィトラーノがボレロと名付けた意味がありそうだ。

グラナダの無血開城

グラナダの陥落

 その後、再びレコンキスタは勢いを増し、グラナダに迫る。そして、ボアブディルの時代の1492年1月2日、アラゴン国フェルディナンド王とカスティーリャ国イザベラ女王のカソリック両国の攻撃により陥落。780年間にわたりイスラムが支配してきたグラナダは無血開城され、レコンキスタが完了した。この歴史的事件はM.M.ガルシアによる 大幻想曲ムーアのグラナダ(Granade Morisqueグラナダモリスカ)に取り上げられ、4楽章のマンドリン合奏曲として1924年に発表されている。陥落後のグラナダでは、イスラム系住民やユダヤ人への改宗または追放令が出て多くのイスラム系住民やユダヤ人がグラナダだけではなくイベリア半島から地中海の南側である北アフリカへ去っている。画像はFrancisco Pradilla画のグラナダ無血開城:Palacio del Senado Madrid所蔵

 1910年代 世界の動向 

 ラヴィトラーノが雪、レナータを書いた後の1910年代のヨーロッパは産業革命後の工業化による経済力・軍事力でキリスト教系国家が世界を席巻した時代である。1908年に日露戦争で勝利した日本の憲政に刺激され、オスマン帝国(現トルコ共和国)では青年トルコ革命が起こった。1914年には第1次世界大戦が勃発、1916年に英・仏・露がオスマン帝国領の分割を密約するなど、イスラムの社会と文化はキリスト教系ヨーロッパ諸国に蹂躙されてしまう。また、第一次世界大戦中の1915年から1916年にかけてオスマン帝国内ではキリスト教徒であるアルメニア人が統一と進歩委員会(青年トルコ党)政権によって虐殺され、100万から150万人が亡くなっている。

 更に黒死病を思い起こさせる、数千万人が犠牲になった1918年のパンデミックであるスペイン風邪の流行など、世界が揺れ動いた時代であった。なお、1918年に終わった第一次世界大戦において中央同盟国としてオスマン帝国とともに連合国と戦ったドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ブルガリア王国などは負けてしまった。

聖オーガスティンキリスト大教会

作曲活動の休止と聖オーガスティンキリスト大教会

 このような歴史的変動の中でラヴィトラーノは作曲の意欲をなくしてしまったようだ。それは第1次世界大戦により経済が疲弊したこともあるが、宗教的寛容と平和を願っていたと思われるラヴィトラーノの信条とは相容れない方向に歴史が進んでいったからなのだろう。なお、ラヴィトラーノがオルガニストを勤めていたボーヌの聖オーガスティンキリスト大教会(アンナバ大聖堂)の名称となっているオーガスティン(アウグスチヌス 354-430)はアルジェリア東部のタガステ(現スーク・アハラスSouk Ahras)に生まれたキリスト教の大司教。この教会はカソリックの教会だがローマ、ビザンチン、アラブ3種の建築様式、文化、宗教が融合し、平和共存している。アンナバの町では現在も宗教・民族・文化の違いを超えた対話や共存の道の探求が続いているそうだ。図はアンナバ大聖堂、イスラミックブルー(ターコイズ)のタイルで飾られている。

ボーヌのオスピス

 ボーヌ(アンナバ)には1443年にブルゴーニュ公国の宰相ニコラ・ロランが創設したオスピス(ホスピス, 施療院)がある。黒死病(ペスト)の経験から設立されたと思われる、この施設では無料で医療サービスを受けられた。入院の条件は「貧乏人」であること。施設の費用は王侯貴族から寄進されたブドウ園の収穫とそこから生産されるワインの販売で賄われていた。当時、施設院のことをオテル・デュー(神の宿、fr:Hôtel-Dieu)とも呼ばれた。

 現在では、その当時の薬品、医療器具を展示した医学博物館になっている。

作曲の再開

 第一次世界大戦が終わり、第2次世界大戦前の一時的な平和を保った時代になって、ラヴィトラーノは改めてマンドリンの作曲に取り組む事となる。マチョッキ主宰のエストゥディアンティーナ誌に全ては去りぬ、晩年に、コロンビーヌなどが載ることになるが、それはラヴィトラーノ58歳、亡くなる5年前の1933年のことである。(知久幹夫)